認識と経験の両方を同時に共鳴させるようでにできるのは『意識』そのものであり、
そしてその両方は完全たる主観なのです。
意識そのものは中身(思考)によって決定されません。
その意識へと流れ込む思考を、海に泳ぐ魚に例えることができます。
海そのものの存在は、魚とは独立しているものです。
海は、水そのものの性質を決定しません。
色のない光線のように意識は目撃されているものを、ただ照らすものです。
ですから、それは世界のあらゆる文字の中で『光』として表現され、
伝統的に意識は光ち結びつけて説明されることが多いのです。
『制限のある自己』を経験することは、ただ『意識の中身』と同一視してしまうことが理由です。
それとは対照的に『意識そのもの』を同一視すると、自己は実に制限のないものであるということがわかります。
自分という感覚は、意識そのものであると認識できるのですが、そのような限界内の自己への認識を
超越すると、私たちは『覚醒』するようになります。

マハリン、マハラジ 引用